古代 あやこ☆ブログ

シンガー・ソングライター

「名古屋のお父さん」と呼んでいた恩人

たいへんにお世話になった恩人が、2月20日に他界しました。
血の繋がりのない親戚です。「名古屋のお父さん」と呼んでいました。
わたしは結婚経験はありませんので、そうゆう関係のお義父さんではありません。
故郷の名古屋市昭和区、桜山ボンボンセンターで両親が店をやってた頃に、来てくれてたお客さんなんです。
わたしはまだ小さかったので、その頃は、おじさんの存在を知りませんでした。
わが家が四日市市富田に引っ越してからもご縁は続き、おじさんのところは食器店だったので食器を買っていたようです。
わたしがおじさんの存在を知ったのは、成人してからになります。


声優になりたいという夢を追っていたわたしは、家を出て本格的に役者修行をやろうと思い立ちましたが、家族の猛反対を受けていました。
東京へと思っていましたが、まずは名古屋でと、当時、天野鎮雄氏が立ち上げたばかりの劇団養成所『劇塾』に申し込みました。
家族への説得は半年に亘りましたが、ここで助け舟として登場したのが、おじさんでした。
「よしっ、おれが様子を見ててやるから、出したれや。」と挙手してくれたそうです。
そうして、わたしは千代寿司という鳥かごから自由になり、冒険の旅に出ることができました。
最初、名古屋市昭和区のおじさん家近くに安いアパートを借りました。一緒に不動産屋に行って探してくれたんです。
「おい、ご飯食べに来いや。」とよく呼んでくれて、歩いて行ける距離だったので、よく行きました。
家族のように接してくれて、名古屋のお父さん、お母さん、兄、弟、妹が出来ました。


まもなく、彼氏が出来てしまい、同棲することになったので、わたしは金山方面に引越しました。
引っ越してからは、おじさん家に行く事が少なくなりましたが、時々、何かあると相談しに行ってました。
劇塾を1年半で辞めて『劇団Wayー夢』に入りました。その公演に、おじさんが協力してくれたことがありました。
芝居のセットを冷蔵庫の団地にするために、たくさんの要らない冷蔵庫が必要だったことがあり「よしっ!俺にまかしとけ!」と集めてくれました。


彼氏と2年で破局が来て、同棲してたマンションから出て、堀川沿いの木造アパートに引越しました。
そこのアパートには20年以上居ました。様々な恋愛ドラマやらサスペンス劇場やら事件やら…それはそれはいろんなことを経験しました。
『劇団Wayー夢』を4年で辞めてフリーになり、役者を続けていました。
それと、劇塾の卒業公演終了後に天野鎮雄氏から「歌が下手」だと言われたのをキッカケに、当時、声楽の講師として劇塾にみえてた作曲家の大野栄潤氏の門下生になり、師匠のスタジオへ個人レッスンにも通い、自然な流れで、役者から徐々にシンガーソングライターへと移行していきました。


食っていくための仕事は、十数件いろいろやりいましたが、名古屋生活の最後に、ホームヘルパー2級の資格を取って訪問介護の仕事を8年間やりました。
仕事をくださる事業所が、デイサービスが出来る物件を探している時に、おじさん家の空いてるスペースが使えるかも〜という話になりました。。
しかし残念ながら、規定に当てはまらなかったので話は変わり、事務所として使ってもらうことになりました。
家の一角を改装して、昭和区事業所が入り、わたしも仕事で定期的に書類を届けに行く用が出来て、毎週、おじさん家に顔を出すようになりました。
おじさんの娘さんには知的障害があり、授産所へバスで通っていて、送り迎えをヘルパーに依頼していました。
事業所がわたしにその役割をふってくれて、また最初の頃のような家族的なお付き合いになっていきました。


おじさんに、癌が見つかりました。今から10年前です。
6回の全身麻酔での手術、十数回の抗がん剤治療、放射線治療ストーマーの身体になっての不自由な生活、そして入退院を繰り返していました。
そんな闘病生活の中、比較的元気な時期もあり、わたしがバスで娘さんと帰ってくると、今度はわたしを車でアパートまでよく送ってくれました。
ある時、実家の親たちがだいぶ高齢になってきたことを思い「そろそろ帰った方がいいかなぁ…」と車中で何気なく言ったとき「おぉ、いつ頃帰るんだ?」とおじさんが訊いてきましたが「でも、わたしが帰る場所がないんだ。」と応えました。
実家を出てから、20数年経っていました。
実家に居た頃は6畳一間に母と弟と3人で寝ていて、自分の部屋なんて無かった。
そしてその部屋は、もう弟が占領していたんです。母は、お座敷だったところを改装した部屋に移りました。
離れに、倉庫になっているボロッボロの家がありました。
そこはかつて親戚が住んでいました。半分は工場で、半分は2階建ての住居になっていました。
親戚が引っ越してからは、我が家の倉庫に使うようになり、20数年の間に、店の物やら私物やら、祖父母の遺品やら、ゴミやら、建物の中はあらゆる物がぐちゃぐちゃに積み込まれた、ゴミ屋敷と化しておりました。
建物自体もだいぶ傷んでいて、雨漏りのために畳は腐り、木の枠の窓は外れかかり、ガラスが割れた部分はベニヤやダンボールが貼ってある。トイレは汲み取り式。
それでも「ここに住めればなぁ…」と思って、時々帰って来た時にひとりでコツコツ片付けていましたが、とてつも無くたいへんで、先は延々と長く思えて「あぁ…わたしは、このゴミ屋敷を片付けながら一生を終わるんだなぁ…」と、本当に途方に暮れていました。
おじさんが「よしっ、まず帰る日を決めよう」と言い、次の年の1月末に引っ越すという目標を、おじさんがいきなり立てちゃいました。
それから、わたしの仕事の休みの度に、おじさんとおばさんがわたしを車に乗せて、名古屋から四日市市富田まで来て、ゴミ屋敷の片付け大掃除を手伝ってくれるようになりました。
知的障害の娘さんもいつも一緒でしたが、彼女は出来ないので、うちの親たちの店でいつもおとなしく待っていてくれました。
片付けはもう凄まじい状態でしたが、人手が3人になったので、わたしが一人でコツコツやってた時とは雲泥の差でした。
ゴミを駐車場に出すと、その光景はまるでテレビで見た外国のゴミの山のようでした。
ゴミの分別もとてつもなく、やることがあり過ぎて、おじさんは自分のワゴン車にあらゆるゴミを積めるだけ積み込んで、名古屋の家まで運びました。
ゴミを積んで車に乗ると、いつも後ろが見えないくらいでした。
名古屋の家に着くと、ゴミを空いてる部屋に入れる。
この部屋というのは、以前に介護事業所の事務所だった部屋です。
契約期間が終わったので、引き上げていかれて空いていました。
そこが、ゴミ解体、分別作業の部屋になってしまいました。
おじさんがいろんな物を解体したり分別して、袋にまとめて、ゴミの日に出す。
そんなことが、何回か、何日か繰り返されました。
富田のゴミがあまりに多いので車に積めず、おじさんはゴミだけ取りに来てくれてたときも、何度かありました。名古屋から…。
おじさんは建築関係の現場監督の仕事をしていたこともあり、いろんな道具を持っていました。
それで解体作業が進みましたが、あらたに道具を買ってまでやってくれてました。
おじさんの家からのゴミの量が多すぎて、近所から苦情まで来たそうです。
そうしてー
やっと実家の倉庫兼住居のゴミが、無くなりました!!!
もう…わたしにしてみれば、夢のようでした。


そこからおじさんは次の作業に入りました。
倉庫部分に棚を作ると言って材料を仕入れ、今度は息子さんを連れて軽トラで来て、たくさんの骨組み材料を組み立てて、倉庫に5列もの立派な3段式棚をセッテイングしてくれました。
この棚はわたしへのプレゼントだとおじさんは言いました。
介護事業所との縁を繋いだことのお礼だと言ってくれました。
棚のおかげで、倉庫は散らかりはすれど、以前のように手が付けられないほどの状態にはなりません。
そして今度は、住居部分の寸法を測っていって、リフォームの設計図を作成してくれました。
大工や業者から見積もりを出してもらい、おじさんに相談。
建築関係の知識を活かして、あれこれアドバイスをしてくれました。
そうして発注。リフォームが始まりました。
予算が少ないので必要最低限のリフォームです。おじさんが最良だと選んでくれた方法で。
なんとか住めるかも〜という状態まで完成したら、また今度は掃除と、いろいろ補充の作業に、おじさんおばさんが来てくれました。
畳が入り、あとは自分で壁紙貼ったり、棚作ったりと部屋らしくしていきました。
そして翌年、予定通り、本当に、引越しを決行することができました。
お祝いにと、おじさんが爽やかな緑色のカーテンをプレゼントとして取り付けてくれました。
今から6年前のことです。


親たちはね、店があるので、その都度、寿司を作っておじさんたちに振舞ってくれる形で貢献しててくれました。


ほんとうに夢のようでした。
ここに住めたらなぁ…と思い焦がれていましたが、ほとんど諦めていたのに…実現してしまいました。
こんな風に、ここまでやってくれる、やれる人って、たぶん他に誰もいないでしょう。
自分の居場所が出来たので、ここで、また名古屋に居た頃のように創作活動も続けていられます。
ボロッちい家だけど、わたしのお城なんですよね。深謝。


富田に帰って来てからも、名古屋のおじさんとこに、毎月会いに行きました。
特に、おじさんがあらゆる治療の末に、3年程前に手術不可能な場所に癌が出来て、余命宣告を受けてからは、鰻弁当の差し入れを3人分持って行きました。
途中からは、おじさんの方から毎月日程を希望してくるようになり、鰻も差し入れじゃなく、注文して買ってくれるようになりました。
毎回、鰻弁当3人分と長焼き1本のご注文。名古屋まで出前です。
おじさんは余命宣告受けてからは、開き直って治療は止めました。
でも不思議な事に、検査の度に癌の数値が下がっていくのです。
医者が驚いていたそうです。
わたしたちも「さすがおじさん、普通じゃないね」と驚き、喜んでいました。
どんどん体調が良くなって、おばさんとも「もしかして治るんじゃない?体験本が書けるね〜」なんて話していました。
うちの母親も、ちょくちょくおじさんに電話しては、そうやって笑話していました。
おじさんのことだから、ほんとうに治っちゃうんじゃないか、そうだといいなぁ〜と期待していました。


でも…急に容態は悪化してしまいました。
今年1月に会った時までは元気だったのに、2月になったら、急に体調が崩れはじめたそうです。
2月の鰻弁当を持参する日、おばさんから電話がかかり、1週間位前から物を食べれなくなったと聞きました。
「今日持って来てもらっても…たぶん食べれない」と。
でも、その電話の後、今度はおじさんから電話。
「寿司のご飯を、パックにパンパンに詰めて2つ追加してくれ」と言われました。
言われたとうりに持参すると、おじさんはベッドに横になってて、見るからに具合悪そうでした。
水も喉を通らないくらいに弱っていました。
おばさんが、氷を口に少しずつ入れてあげて、やっと水分補給していました。
とても気分が悪そうで「話が出来ない」と言うし、機嫌も悪くて、口調もいつものおじさんらしく無い荒々しい感じでした。
でも帰り、おじさんは「また来月も、同じ日に鰻と寿司飯を持って来てくれ」と、いつものように注文してくれました。
わたしもいつものように「うん、わかった。また来月ね」と言い、おじさんと握手をしました。
か細い、力の弱い手でした。
部屋を出てから「あっ」と思いました。
前におじさんが「お別れの時しか握手しない」って言ってた。
おじさん……。


その2日後、おじさんが亡くなったと、おばさんから電話がかかりました。


急遽仕事を休ませてもらい、おじさんの葬式に参列させてもらいました。
21名のささやかな家族葬でした。
そこに、わたしも入れていただけました。
祭壇にお供えしてあるご飯がね、わたしが持っていった、あの寿司ご飯でした。
最後に、お棺の中に、寿司ご飯も入れていただけました。
千代寿司の寿司ご飯で、おじさんを送ることが出来ました。


眠るように息を引き取ったと
最期に傍についていらっしゃった、おじさんのお兄さんが教えてくださいました。
だから、安らかな顔で永眠していました。
せめてもの救いでした。


名古屋のお父さん
あなたのおかげで、今のわたしがあります。
あなたが、わたしにしてくださったことは、ほんとうに大きい。
夢を抱いて家を出て、その夢自体は実現できなかったけど
この冒険で得たものは、たくさんあります。
たくさんの出会い、ご縁、良き仲間たち。
家を出る時には全く想像もしていなかった
歌を作ってコンサートを開催し続けてる自分。
家を出てなかったら、有り得なかった人生。
この先、どうなっていくのかな。
とにかく、大事にして生きていきます。
名古屋のお父さん、見ててね。


ほんとうにほんとうに
ありがとう!